東京高等裁判所 平成4年(ネ)4724号 判決 1993年9月14日
控訴人
密田良雄
右訴訟代理人弁護士
大沼和子
被控訴人
小川景士
右訴訟代理人弁護士
井坂光明
主文
本件控訴を棄却する。
控訴費用は控訴人の負担とする。
事実
第一 申立
一 控訴人
1 原判決を取り消す。
2 被控訴人の請求を棄却する。
3 訴訟費用は第一、二審とも被控訴人の負担とする。
二 被控訴人
控訴棄却
第二 当事者の主張及び証拠<省略>
理由
一請求原因のうち、以下の事実は、当事者間に争いがない。
1 密田捷(医師、明治三八年六月二五日生、以下「捷」という。)は、昭和五五年一二月二五日死亡した。
捷の相続人は、同人の妻密田信(以下「信」という。)、その子である福田嘉子(以下「嘉子」という。)、同密田清太郎(以下「清太郎」という。)、同糸井和子(以下「和子」という。)、同控訴人(医師)、同向出裕子(以下「裕子」という。)、同密田季己恵(以下「季己恵」という。)の七人である。
2 清太郎及び和子は、被控訴人主張の捷の自筆証書遺言(昭和五五年一二月一三日付、被控訴人を遺言執行者に指定したとするもの、以下「本件遺言」という。)について、被控訴人を被告として遺言無効確認請求事件を提起し、その控訴審(東京高等裁判所昭和五九年(ネ)第一七三四号、同第一七八四号)において、昭和六〇年一二月一三日、次の内容の和解(以下「本件和解」という。)が成立した。
(1) 被控訴人及び捷の相続人らは、信の相続分が三分の一、嘉子、清太郎、和子、控訴人、裕子の相続分が各九〇分の一一、季己恵の相続分が一八分の一であることを確認する。
(2) 被控訴人及び捷の相続人らは、捷の遺産分割につき、東京家庭裁判所昭和五六年(家イ)第二一〇五号、同第三二七四号各遺産分割調停事件の調停において相続人らがその協議により遺産分割を行う。
3 その後、右各調停事件は取り下げられた。
4 信は、昭和六二年八月三一日死亡した。
信の相続人は、嘉子、清太郎、和子、控訴人、裕子及び季己恵の六人である。
5 その後申し立てられた東京家庭裁判所昭和六三年(家イ)第二〇二二号遺産分割調停事件において、平成二年一二月一九日、捷の遺産分割につき調停が成立した。
6 被控訴人は、平成三年、東京家庭裁判所に捷の相続人である嘉子、清太郎、和子、控訴人、裕子及び季己恵の六人を相手方として、本件遺言についての被控訴人の遺言執行に対する報酬付与を申し立てた。
同裁判所は、平成三年三月二六日付審判(同裁判所平成三年(家)第一四三号、以下「本件報酬付与の審判」という。)により、被控訴人の右遺言執行に対する報酬を金五〇〇万円と定め、右審判は確定した。
7 控訴人は、捷からその遺産の九〇分の一一を直接相続により取得し、また、捷の遺産の三分の一を相続により取得した信の遺産の一二分の七を取得した結果、捷の遺産の一八〇分の五七を取得した。
二まず、控訴人は、本件遺言当時、捷には意思能力がなく、かつ、本件遺言書は被控訴人が捷の手を無理やり取って被控訴人自ら作成したもので無効であり、被控訴人は捷の遺言執行者ではないと主張するので、判断する。
前記争いのない事実及び証拠(<書証番号略>、弁論の全趣旨)によれば、以下の事実を認めることができる。
1 捷は、永年開業医として働き、都内に多くの不動産を取得するなど莫大な資産を形成していた。捷は、昭和五五年五月頃、肝硬変で入院したが、診断の結果肝臓癌であることが判明し、治癒の見込みがなかったことから、同年一〇月、退院して自宅で療養していた。
捷は、同年一一月下旬、旧制高校の後輩で弁護士である被控訴人に遺言書の作成を依頼した。その際、捷は、被控訴人に対し、遺言の基本的方針は、妻信の余生に心配がないようにすること、相続人に相続税がなるべくかからないようにすること、現在相続人が使用している不動産は原則としてその者が取得できるようにし、後日相続人間で紛争が起きないようにすることにあるが、遺言の内容と執行は被控訴人に任せる旨述べた。
2 被控訴人は、昭和五五年一二月、捷の意向を受けて公証人荒木大任に対し公正証書遺言の作成を依頼したが、同公証人は、捷の財産が多く遺言書の原稿が詳細かつ長文であって捷がこれをすべて口授するのは不可能であると判断し、公正証書遺言の作成を取り止めた。
3 被控訴人は、昭和五五年一二月一三日、捷宅において、同人に対し自筆証書遺言をすることを勧めたところ、捷もこれを承諾したので、遺言書を作成することになった。当時、捷の精神状態は正常であり、その判断能力に欠けるところはなかった。
捷は、衰弱と腹水のため自力で起き上がることができなかったので、その場に立ち会っていた控訴人が上半身を起こしてやり、背後から捷の身体を支えた。
捷は、バインダーを台にして自ら右手にボールペンを握り被控訴人の用意した用紙に遺言の内容を書こうとしたが、肘が固定せず手が震えてそのままでは筆記が困難であった。そこで、被控訴人は、自分の右掌を上に向けて捷の右手首の下に当てて同人の手を支えてやり、同人の手を筆記する位置に導いてやった。捷は、被控訴人の添え手による右のような補助を受けながら自分の意思で一文字ずつ筆記し、
「ゆいごん わしのいさんそうぞくの指定としっこうを小川景士べんごしにいたくする 昭和55年12月13日 密田捷」
と記載し、更に被控訴人に指示して捷の名下に同人の印章を押捺させて本件遺言書を作成した。
捷の右筆記にあたり、被控訴人は、捷の右手首を上から握ったり、ボールペンに触れたり、あるいは筆順に従って同人の手を誘導したりしたことはなかった。
なお、本件遺言書の作成には、控訴人のほか、信、嘉子及び裕子が立ち会った。
控訴人は、前記遺言無効確認請求訴訟において、証人として、「(捷の)精神状態に関しては正常な範疇に入っていたと思います。本件遺言書は父(捷)の本心だと思います。多少支えられたりして手助けを受けておりますけれども、書いたのは父だと思います。」と証言している。
4 右遺言無効確認請求訴訟における筆跡鑑定によれば、本件遺言書は、捷が右手を被控訴人に支えてもらい、配字などにつき援助を受けながら、自ら最後の力を振り絞って書き上げたものとされている。
右認定の事実によれば、捷の本件遺言は、被控訴人の添え手による補助を受けてされた自筆証書遺言であるが、捷は、本件遺言書作成当時、意思能力(遺言能力)に欠けるところはなく、自書能力を有し、かつ、単に字の間配りや行間を整えるなど筆記を容易にするため被控訴人から添え手による支えを借りて自ら自書したものであり、運筆に被控訴人の意思が介入した形跡のないことが筆跡のうえでも判定できるから、本件遺言は、自書の要件を充たすものとして、有効であるというべきである。
そして、捷が被控訴人に本件遺言書の作成を依頼した経過、依頼の内容、本件遺言書作成時の事情、その記載内容からすると、本件遺言は、相続分の指定と遺産分割方法の指定の両者を被控訴人に委託し、かつ、被控訴人を遺言執行者に指定し、現実に遺産の分配手続をも委託した趣旨のものと解することができる。
そうすると、本件遺言の効力を争い、被控訴人は捷の遺言執行者ではないとする控訴人の主張は理由がない。
三次に、控訴人は、被控訴人の遺言執行行為は全く存在しないと主張するので、この点について判断する。
この点は、本件報酬付与の審判において、前提問題として審理・判断されているところであり、執行行為の内容等をも考慮し、報酬額を定めたものであるが、念のために当審における判断を示すこととする。
証拠(<書証番号略>)によれば、以下の事実を認めることができる。
1 捷は、昭和五五年一二月二五日死亡し、被控訴人は、本件遺言の遺言執行者としての就職を承諾し、所持していた本件遺言書につき、東京家庭裁判所に遺言書検認の申立(同裁判所昭和五五(家)第二一〇五号)をし、同裁判所は、昭和五六年三月四日、被控訴人及び捷の相続人全員を審問の上、本件遺言書の検認をした。
2 被控訴人は、本件遺言の遺言執行者の資格において、前記遺言無効確認請求訴訟の一審被告、その控訴審の被控訴人として、右事件の審理に関与した。
3 右控訴審(清太郎及び和子が控訴人)において、昭和六〇年二月一三日、本件和解が成立した。本件和解には、信、嘉子、控訴人、裕子及び季己恵の五人が利害関係人として参加した。
本件和解は、被控訴人が本件遺言の遺言執行者であることを前提に「捷の相続人らは、捷の遺産分割につき、東京家庭裁判所昭和五六年(家イ)第二一〇五号、同第三二七四号各遺産分割調停事件の調停においてその協議により遺産分割を行う。ただし、右遺産分割の協議案は被控訴人が被相続人捷の意思並びに各相続人の生活状況、職業等を考慮し、かつ、各相続人の意見を聴取して作成する」ことを内容としていた。
4 被控訴人は、右和解条項に従って、遺産分割の協議案(<書証番号略>)を作成して各相続人に提示し説得したが、右各調停事件は調停が成立しないうちに取り下げられた。
5 信が昭和六二年八月三一日死亡した後、嘉子及び裕子は、被相続人捷についての遺産分割調停申立(東京家庭裁判所昭和六三年(家イ)第二〇二二号)をした。
被控訴人は、平成元年一月、右調停事件の担当審判官に対し、本件遺言の遺言執行者として、右調停事件に参加したい旨の申出をした。これに対し、担当審判官から被控訴人に対し、しばらく調停の経過を見守っていてもらいたいとの意向が示され、その後、右遺産分割調停は、平成二年一二月一九日、被控訴人が関与することなく、成立した。
そして、右調停に基づき、捷の相続人間で遺産分割の実行手続がされたことにより被控訴人の遺言執行は終了した。
右認定の事実によれば、被控訴人は、遺言執行者に就職後、捷の本件遺言に従い、右に認定したような遺言執行者としての任務を行ってきたことが認められる。
したがって、被控訴人の遺言執行行為は存在しない旨の控訴人の主張は理由がない。
四次に、控訴人は、被控訴人の遺言執行報酬額を争うので、この点について判断する。
前記認定のとおり、控訴人は、捷からその遺産の九〇分の一一を直接相続により取得し、さらに捷の遺産の三分の一を相続により取得した信の遺産の一二分の七を取得した結果、捷の遺産の一八〇分の五七を取得し、また、東京家庭裁判所が平成三年三月二六日被控訴人の遺言執行に対する報酬を金五〇〇万円と定めた本件報酬付与の審判は確定した。そして、本件報酬付与の審判の効力を否定すべき事由は見当たらない。
そうすると、遺言執行費用は相続財産の負担とされ(民法一〇二一条)、各相続人が相続によって取得した財産の割合で按分して負担すべきものと解するのが相当であるから、控訴人が被控訴人に支払うべき遺言執行報酬額は、右金五〇〇万円に一八〇分の五七を乗じた金一五八万三三三三円となる。
五したがって、被控訴人の本件請求を認容した原判決は相当であり、本件控訴は理由がない。
よって、本件控訴を棄却し、控訴費用の負担につき民訴法九五条、八九条を適用して、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官時岡泰 裁判官大谷正治 裁判官小野剛)